ヒト

2023.05.13

旅人の街に生まれて。旅するように生きる『executive』(中標津町)

どこまでも続くまっすぐでゆるやかな一本道を登り切り、クラッチを握り5速からセカンドに緩めてすぐ右折。突然現れる17%の勾配を乾いた破裂音とともに登りきると急に視界が360度広がるパノラマに飛び出す。ジェットコースターのような細い道の行きつく場所。1982年夏。それぞれの愛車に跨るバイク乗りが憧れ、集い、また旅立っていく丘『開陽台』。旅人が轟音とともに運ぶ高揚感は違う誰かに伝染していく。この得体のしれない高揚感に揺さぶられたのは旅人だけではなく辺境と言われた町の少年。富岡裕喜さん、10歳。

 

 

■とみおかクリーニング3代目として

 

―1950年創業のとみおかクリーニングさんですが老舗の3代目として生まれた富岡さんはどんな子供だったのでしょうか?

 

クリーニング工場の2階に住んでいたので、ものごころ付いた頃から常に洗濯物に囲まれていましたし、クリーニング工場独特の匂いをまとって出入りしていた記憶があります。

今から思えば自然豊かな町ですが、当時は何にもない田舎が嫌で嫌で、いつかこの田舎町を出るんだと一時的にパイロットを目指した頃もあり、気付くと高校は釧路、大学は横浜というように生まれたところを遠く離れるベクトルが私の中に出来上がってしまっていたように感じます。

また、開陽台に集まるミツバチ族といわれたバイク乗りやバックパッカーで夏の中標津は活気がありましたから『旅』という行為にあこがれをもつようになりました。なんかふわふわした少年だったと思います。

 

―そんな富岡さんにとっての最初の旅は?

大学2年生の夏休みだったと思うのですがバイクで二ヶ月近くかけて日本一周しました。ヤマハのSRVでした。

色んな人と出会う旅に魅せられ、英語は割と興味をもって勉強した方で休みの時はほぼ海外を放浪していましたね。完全なバックパッカーです。結局今まで50ヵ国は回っています。

 ネパールでヒマラヤ山脈を背景に

■旅について

 

―印象的だった旅のエピソードを教えてください!

 

全ての旅が印象的でしたが、サハラ砂漠に行った帰りモロッコから列車に乗りスペインを抜けフランスのシャルルドゴール空港から帰る計画でしたが、スペインとフランスの国境をフランス側の鉄道会社のストライキで越えることができなくなりました。

必ず日本に戻らなければならなかったのですがお金もなかったので急遽見知らぬ同士の旅人4人に声をかけてレンタカーを借りることにしました。モロッコ人とフランス人とアメリカ人とアルゼンチン人と僕はそれぞれが話せる言語をリレーさせていくことでお互いを理解させたのですが、旅のドタバタもありとにかくエキサイティングでした。

国際交流を一瞬にして体験したことで海外で生きていくことに興味を持てるようになりましたし、大学が経営学部でしたから就職するなら海外事業のある会社にしようと決めました。

 サハラ砂漠で現地の子供たちと

フランスで立ち往生したとき

■自由な職業観

 

―いきなりとみおかクリーニングを継いだのではないのですね?!

 

はい。父親から継げ!と言われたことはありませんでしたし、自分の道を進むつもりで北海道拓殖銀行に入行しました。バックパッカー時代、アジアの新興国の活気に魅了され、日本の役割への期待感をひしひしと感じ、自分としてもそこに何か関わりながら生きていきたいという気持ちが生まれました。

拓銀であれば北海道と首都圏、首都圏と海外を結ぶ仕事ができそうだと思い魅力を感じました。東京の馬喰町支店で外国為替などを経験しましたが2年程で経営破綻しました。

海外ビジネスに携わりたいという思いは益々強くなっていたので海外営業という仕事でオリンパスに3年、日清食品に2年勤めました。それぞれ日本の技術を世界に広める仕事、日本の食文化を世界に広める仕事と思っていました。

 

 

―富岡さんの時代は、まだ個が企業に奉仕する時代だったと思いますが、自身のスキルとビジョンに基づきやりたい仕事を選択する自由な生き方は爽快でもありますね。なかなかできそうで実際はできないものだと思います。

 

そうですよね、随分好き勝手に生きてきたように思います。その分、いろんな人に迷惑かけてきたなという反省もあるんです。笑

そんな中、30代になって間もなく、父親が上京してきて「会社を継ぐか?もしやらないなら会社を売ってしまうけどどうする??」と聞いてきました。

やはり悩みましたが将来自分で何かやってみたいなという気持ちはありましたし、祖父、父と続いてきた会社を売ってしまうのももったいないと感じ会社を引き継ぐことを決意しました。

ただ引き継ぐ前に経営を勉強し直したいと思い、両親も理解してくれたので33歳で渡英し、2004年-2005年にかけてサウサンプトン大学でMBAを取得しました。

様々な経営理論やケーススタディーを通じて色々な国々と仲間と議論し学んだ経験は今も活きていますし、後にその同級生が当社に入り現在中核として働いてくれていたり、妻と出会うこともできました。

 

 札幌のとみおかクリーニングショップ

■経営者の流儀

 

―2006年に中標津に戻られましたが3代目としてのオリジナリティーを出す上で何を目指されましたか?

 

戻って間もない頃は、上場を目指すとか海外事業を展開したいとか大きなことを目論んでいましたが、すぐに譫言だと気づかされました。現実はクリーニング業界全体の需要減傾向や商売上のしがらみなど身動きできない状況にありました。未来像が描けず数年は悶々とした日々でしたが、いろんな試行錯誤を繰り返しているうちに業界の全体像や課題も見えてきて、とみおかクリーニングの目指すべき方向性がなんとなく見えてきました。

クリーニング需要は減っていても、人口減少は多少あるものの洗濯物の総量はそれほど減っていないのではないかと思うようになりました。逆に考えると、クリーニングに出されない分、家庭での洗濯負担が増えているということです。

そこで、とみおかクリーニングとして次のような取組を始めました。

1.            洗濯まるごとをサポートする会社に転換を図る

2.            洗濯の枠を超え家事全般に対応する商品提案を行う。合言葉は“家事を楽しく!”

3.            生活者のエシカル消費に対応する

 

1は、何が何でもクリーニングにだしてもらうことを目指すのではなく、洗濯のプロとして家庭洗濯に役立てる商品やサービスを提供していこうということです。洗濯は負担の大きい家事のひとつだと思います。その時間を少しでも楽チンで楽しい時間に変えられたらなという思いです。

2は事業領域を洗濯だけでなくもう少し広くとらえて家事全般について考えていこうということです。洗濯だけでなく“家事を楽しく!”ということを考えています。

3は、やはりそうはいっても楽しいだけじゃダメで、健康とか、環境とか、地球とか、そういったことを配慮したサステイナブルにいこうということです。これは実は今に始まったことではなくて父の代からずっととみおかクリーニングがこだわってきたことなんです。

ただ、発信ベタだったので、今後は正しく伝えていくとともに更に推し進めていきたいです。 これらが、当社のすすむべき方向性なのかなと思っています。物販事業が始まる2010年以前はクリーニング需要の受皿しか、持ち得ていませんでしたがお客様が家庭で消費する洗剤等の需要を深堀してさらに、2023年よりランドリーカフェをオープンさせることでクリーニング部門:物販部門:ランドリーの利用を1:1:1の割合まで持っていこうと考えています。

 

とみおかクリーニング洗剤。NO.1人気商品!

■エシカルであること

 

―富岡さんの“家事を楽しく!”という言葉は、“人生を楽しく!”と言ってるように聞こえます。富岡さんにとっての人生の豊かさって何でしょうか?

 

1994年に「トレックアメリカ」という世界中から集まった若者が1台の13人乗りのバンに乗って、アメリカ大陸をキャンプしながら横断するというツアーに参加しました。壮大な自然を誇る国立公園をめぐって気付かされたのが「公園内の厳格なレギュレーション」です。

まず人間ありきの観光ではなく、自然のアンタッチャブルな部分を厳格に守ることの価値にお金も人もかける。今なら日本もそうなってきていますが、当時はその違いにアメリカの豊かさの意味がわかった気がしました。

SDGsに“No one will be left behind”という言葉がありますが、我々の作ったものが誰かの犠牲の上に成り立つなら、それを『豊かさ』とは呼べません。とみおかクリーニングの一番の人気商品である“洗剤”は最低限、川や海を汚さないことにこだわっていて、資源保護、環境保全の観点から量り売りをするなど私たちの生活スタイルまで提案しています。

小さなことかもしれませんが、とみおか流のエシカルを積み上げていくことで豊かな次世代につなげていければと思っています。

撮影・文 山本 照二

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